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written by 西田真尋 for Service Area Web Friday -Track Back Special!
本日のお題 第61回「サッカー!残念だったね」
ある意味論理的な結果であるとは言える。
ただサッカーで踏み込んだ話は自分の個人サイトで(多分)やる事にしてここではちょっと違った所からの話である。
日本代表のW杯は1分2敗の勝点1で得点2の失点7。グループ最下位で大会を終える事になった。次の大会にあたっては今大会の結果を受けてのアジア枠の削減、ベスト16入りしたオーストラリアのアジアへの加入、世代交代など課題は山積であり一方で今大会に出場した世代以降の国際経験の少なさから考えると場合によっては本大会の出場すらかなわないという結果にすらなってしまうだろう。
この事にあたっては様々な原因が考えられるがここではあえてメディアやスポンサーなどサッカー以外の話になる。
この4年間で特筆すべきはこの結果を予見しえる懐疑論や批判がネット上などでは少なくなかったにも関わらずテレビや新聞など所謂大マスコミと言える大企業における報道機関において全くといっていいほどそのような趣旨の報道が行われなかった事である。
その要因については多くを語らないがファンなどでも少々事情に詳しければ推察は十分可能であろう。FIFAに掛け合い試合の日程すら変更できる力がもしあれば報道機関に影響を与えて内容についてある程度コントロールする事も不可能で無いとも言えない。
少なくとも某タレントがCSのテレビ放送にて暴露していたように記者席でも非難囂々であるにも関わらずそれが普段目にするメディアでほとんど垣間見えないのは少なくとも奇妙ではある。
これまでのテストマッチなどを見ても監督であるジーコの監督としての能力・資質について問われるような試合が無かったかといえばそんな事は全くない。しかしその度に出てくるのは選手のプレーへの注文や批判、願望とも言える感想だけである。
一般的にサッカーの監督はそのチームの目的(リーグであれば優勝や1部・2部などへの残留、代表だとチームによって異なる)に応じて、要因はともかくとして目的を達せられないと判断されれば簡単に首が飛ぶ職業である。それはこの世界では「2回首になって一人前」のような言葉があるほどだ。実際、韓国などは予選を通過したにも関わらず当時の監督は更迭されている。
つまりなぜ現在の体制で任期2年目でサポーターから解任のデモすら起こった監督が特にマスメディアから表立った批判もなかったのかという事である。
マスメディアでコメントや論評を行っている批評家や元選手はその発言によって生計を成り立たせている人たちである。言ってみればその道の「プロ」と呼ばれる人間達だ。そうであるにも関わらず彼らの予見は何一つ当たる事がなかったと言っていいだろう。
個人的な見方ではあるがそこにあるのはこの国における「プロ」という物への誤解や過信。言ってみれば「プロ幻想」という物があったのではないだろうか。
ここで「プロ」という物について考えてみる。
「プロ」とは概ね持ち前の技術を発揮して職業にしている人間達の事を指している。スポーツ選手もそうであるが他にも芸術やマスメディア、他にも軍人や医師など特殊な任務を背負った人間もおそらく指すだろう。だが考えて欲しい。特殊な資格を要する技術職などはともかくとして特に資格を問われない職業の「プロ」達は何をもって「プロ」と呼ばれるのだろうか。
言うまでもない、それは金銭である。
つまり対価としての金銭の受注を持ってそう呼ばれているのである。
ここまで書くと特に資格は関係ないようにも見える。しかし本当にそうなのだろうか。ここで気を付けなければいけないのは実はそこに買い手と売り手が存在しておらず基本的にビジネスの関係でしか成立していない事である。
資格などを要する職業は基本的に社会の要請がある物がほとんどであり関連する法律で管理されている。過日の耐震偽装問題などがいい例であり怠慢や過失、服務規程の違反があれば罪に問われる。(特に医療や法曹など社会の安定や人命に関わる職業には応招義務もあり、気分次第で業務の依頼を断る事も許されない)
要するに業務を遂行する上で個人の価値観を別にしてそのあり方も明確に規定されているのである。
一方でそうでない「プロ」はどうなのであろう。そこには特に厳格な規定など一切存在しない。問われるのは当事者達の倫理観や価値観だけである。つまり一般の商取引などとなんら変わらないのである。それだけで考えると会社員や自営業者と同じである。そして何より取引の相手は企業である。企業の目的は言うまでもなく収益である。そうでなければ企業体は存続する事はできない。理想に殉じて倒産する会社を立派だとは誰も言わないだろう。
ここが問題なのである。
「プロ」は企業と商売をする事で生計を立てているのである。そして依頼を行うのは企業である。しかし当事者達の個人的な価値観は様々だろうが第一にあるのは収益なのである。もし倫理的にはどんなに讃えられようが不法でもなく収益に悪影響があれば行うだろうか。答えは言うまでもない。
何が言いたいのかと言えばそういう「プロ」の行動が正しくステイタスのある物とは必ずしも言えないという事だ。そこには前述したような背景的な事情によってバイアスがかけられている事が多々存在する。スポーツメディアに関してもそうであるし他のジャンルに関してもそうである。
一方でそれを享受する我々の問題もある。それは「プロ」、「プロフェッショナル」という言葉である。
英語の辞書を見ると、職業家と言われているがもう一方の翻訳では名手と訳される事もある。我々はこの2重の意味を混同してはいないだろうか。
金銭を受ける=職業=「プロ」=名手
以上のような図式を知らず知らずに構築してはいないだろうか。
ちなみに名手という言葉であるがこれは別にexpertという言葉もあるし他に和製の洋語では「マエストロ」という言葉もある。少なくとも「プロ」=「マエストロ」という事は無いのではないだろうか。「マエストロ」の中には関わっているジャンルの問題で金銭に換えられない、換えることが不可能な物も少なからず存在する。あくまでも金銭のやりとりでは利潤や収益などが問題になるからである。
個人的にはこの「プロ」という言葉を今は「マーケット」という言葉に置き換えて使う事にしている。この方が本質が鮮明になるからである。勿論「マーケット」の中には「マエストロ」も存在するが全員であるという事は絶対にない。業界の企業の就職しただけで「プロ」と名乗り稚拙な論法で権威を誇示する輩も見た事はあるが鼻で嗤う事しかりである。そこには「提示された技の成果」という本質が欠如しているからである。
メディアは多極化しつつある。価値観も多様化しつつある。そうであるのなら「プロ幻想」から脱却し客体である我々もリテラシーを深め自分の目で判断する事が尚の事必要になるのではないだろうか。
少なくとも肩書きの権威を持ち出す輩には要注意である。後、今回の代表のように安易なナショナリズムを持ち出す輩にも要注意である。他にも色々上げられるが本質を欠いた議論には要注意である。その手の話を無闇に持ち出す輩は大きく分けて2種類といえる。自分のアイデンティティを守りたいだけの者か背後に別の事情が存在している者かのどちらかである。
少なくともこの事を考える事は直情的に暴力に訴えなくても出来る。それを伝える事も出来る。その上の行動であればどんなにささやかでも未来に繋げる事はできるだろう。少しでも現状を変える事はできるだろう。勿論時間は掛かるが。
この敗戦はある意味日本社会の現実を色濃く反映していると思う。だからこそ残念であり辛い。変えられない人間の一人の自分としては日本サッカー史上最高の経験を持っている世代の最後の大会をこのように迎えさせてしまった事に対して申し訳ない。
だからこそもう2度と繰り返してはならないとも思う。おそらく2度目はないだろう。それはもう一巻の終わりである。
ささやかな表明としてここに筆を置く。
本日のお題 第61回「サッカー!残念だったね」
ある意味論理的な結果であるとは言える。
ただサッカーで踏み込んだ話は自分の個人サイトで(多分)やる事にしてここではちょっと違った所からの話である。
日本代表のW杯は1分2敗の勝点1で得点2の失点7。グループ最下位で大会を終える事になった。次の大会にあたっては今大会の結果を受けてのアジア枠の削減、ベスト16入りしたオーストラリアのアジアへの加入、世代交代など課題は山積であり一方で今大会に出場した世代以降の国際経験の少なさから考えると場合によっては本大会の出場すらかなわないという結果にすらなってしまうだろう。
この事にあたっては様々な原因が考えられるがここではあえてメディアやスポンサーなどサッカー以外の話になる。
この4年間で特筆すべきはこの結果を予見しえる懐疑論や批判がネット上などでは少なくなかったにも関わらずテレビや新聞など所謂大マスコミと言える大企業における報道機関において全くといっていいほどそのような趣旨の報道が行われなかった事である。
その要因については多くを語らないがファンなどでも少々事情に詳しければ推察は十分可能であろう。FIFAに掛け合い試合の日程すら変更できる力がもしあれば報道機関に影響を与えて内容についてある程度コントロールする事も不可能で無いとも言えない。
少なくとも某タレントがCSのテレビ放送にて暴露していたように記者席でも非難囂々であるにも関わらずそれが普段目にするメディアでほとんど垣間見えないのは少なくとも奇妙ではある。
これまでのテストマッチなどを見ても監督であるジーコの監督としての能力・資質について問われるような試合が無かったかといえばそんな事は全くない。しかしその度に出てくるのは選手のプレーへの注文や批判、願望とも言える感想だけである。
一般的にサッカーの監督はそのチームの目的(リーグであれば優勝や1部・2部などへの残留、代表だとチームによって異なる)に応じて、要因はともかくとして目的を達せられないと判断されれば簡単に首が飛ぶ職業である。それはこの世界では「2回首になって一人前」のような言葉があるほどだ。実際、韓国などは予選を通過したにも関わらず当時の監督は更迭されている。
つまりなぜ現在の体制で任期2年目でサポーターから解任のデモすら起こった監督が特にマスメディアから表立った批判もなかったのかという事である。
マスメディアでコメントや論評を行っている批評家や元選手はその発言によって生計を成り立たせている人たちである。言ってみればその道の「プロ」と呼ばれる人間達だ。そうであるにも関わらず彼らの予見は何一つ当たる事がなかったと言っていいだろう。
個人的な見方ではあるがそこにあるのはこの国における「プロ」という物への誤解や過信。言ってみれば「プロ幻想」という物があったのではないだろうか。
ここで「プロ」という物について考えてみる。
「プロ」とは概ね持ち前の技術を発揮して職業にしている人間達の事を指している。スポーツ選手もそうであるが他にも芸術やマスメディア、他にも軍人や医師など特殊な任務を背負った人間もおそらく指すだろう。だが考えて欲しい。特殊な資格を要する技術職などはともかくとして特に資格を問われない職業の「プロ」達は何をもって「プロ」と呼ばれるのだろうか。
言うまでもない、それは金銭である。
つまり対価としての金銭の受注を持ってそう呼ばれているのである。
ここまで書くと特に資格は関係ないようにも見える。しかし本当にそうなのだろうか。ここで気を付けなければいけないのは実はそこに買い手と売り手が存在しておらず基本的にビジネスの関係でしか成立していない事である。
資格などを要する職業は基本的に社会の要請がある物がほとんどであり関連する法律で管理されている。過日の耐震偽装問題などがいい例であり怠慢や過失、服務規程の違反があれば罪に問われる。(特に医療や法曹など社会の安定や人命に関わる職業には応招義務もあり、気分次第で業務の依頼を断る事も許されない)
要するに業務を遂行する上で個人の価値観を別にしてそのあり方も明確に規定されているのである。
一方でそうでない「プロ」はどうなのであろう。そこには特に厳格な規定など一切存在しない。問われるのは当事者達の倫理観や価値観だけである。つまり一般の商取引などとなんら変わらないのである。それだけで考えると会社員や自営業者と同じである。そして何より取引の相手は企業である。企業の目的は言うまでもなく収益である。そうでなければ企業体は存続する事はできない。理想に殉じて倒産する会社を立派だとは誰も言わないだろう。
ここが問題なのである。
「プロ」は企業と商売をする事で生計を立てているのである。そして依頼を行うのは企業である。しかし当事者達の個人的な価値観は様々だろうが第一にあるのは収益なのである。もし倫理的にはどんなに讃えられようが不法でもなく収益に悪影響があれば行うだろうか。答えは言うまでもない。
何が言いたいのかと言えばそういう「プロ」の行動が正しくステイタスのある物とは必ずしも言えないという事だ。そこには前述したような背景的な事情によってバイアスがかけられている事が多々存在する。スポーツメディアに関してもそうであるし他のジャンルに関してもそうである。
一方でそれを享受する我々の問題もある。それは「プロ」、「プロフェッショナル」という言葉である。
英語の辞書を見ると、職業家と言われているがもう一方の翻訳では名手と訳される事もある。我々はこの2重の意味を混同してはいないだろうか。
金銭を受ける=職業=「プロ」=名手
以上のような図式を知らず知らずに構築してはいないだろうか。
ちなみに名手という言葉であるがこれは別にexpertという言葉もあるし他に和製の洋語では「マエストロ」という言葉もある。少なくとも「プロ」=「マエストロ」という事は無いのではないだろうか。「マエストロ」の中には関わっているジャンルの問題で金銭に換えられない、換えることが不可能な物も少なからず存在する。あくまでも金銭のやりとりでは利潤や収益などが問題になるからである。
個人的にはこの「プロ」という言葉を今は「マーケット」という言葉に置き換えて使う事にしている。この方が本質が鮮明になるからである。勿論「マーケット」の中には「マエストロ」も存在するが全員であるという事は絶対にない。業界の企業の就職しただけで「プロ」と名乗り稚拙な論法で権威を誇示する輩も見た事はあるが鼻で嗤う事しかりである。そこには「提示された技の成果」という本質が欠如しているからである。
メディアは多極化しつつある。価値観も多様化しつつある。そうであるのなら「プロ幻想」から脱却し客体である我々もリテラシーを深め自分の目で判断する事が尚の事必要になるのではないだろうか。
少なくとも肩書きの権威を持ち出す輩には要注意である。後、今回の代表のように安易なナショナリズムを持ち出す輩にも要注意である。他にも色々上げられるが本質を欠いた議論には要注意である。その手の話を無闇に持ち出す輩は大きく分けて2種類といえる。自分のアイデンティティを守りたいだけの者か背後に別の事情が存在している者かのどちらかである。
少なくともこの事を考える事は直情的に暴力に訴えなくても出来る。それを伝える事も出来る。その上の行動であればどんなにささやかでも未来に繋げる事はできるだろう。少しでも現状を変える事はできるだろう。勿論時間は掛かるが。
この敗戦はある意味日本社会の現実を色濃く反映していると思う。だからこそ残念であり辛い。変えられない人間の一人の自分としては日本サッカー史上最高の経験を持っている世代の最後の大会をこのように迎えさせてしまった事に対して申し訳ない。
だからこそもう2度と繰り返してはならないとも思う。おそらく2度目はないだろう。それはもう一巻の終わりである。
ささやかな表明としてここに筆を置く。

